今日までのいながき

編集長のいながきです。せっかくなので詳しく自分の事を話させてもらいます。約30年分の長いストーリーなので、興味ないところは飛ばして読んでね♡

中学生まで

幼少期

大阪市西成区で、いながきは産声をあげた。そこそこの重量で、生まれてきたらしい。喋り始めたのは3歳と遅かったが、自分の事をアンパンマンと呼び出す。(ちなみに叔母をダダと呼んでいたらしいが、円谷プロとは一切関係ない)

小学校時代

おそらく、人生史上一番精神年齢が高かった。今思えば、周りはイジメの標的にしていたのだろう。物を目の前で盗られて、逃げ回られたりされたが、遊んで欲しいんだなと思って走って捕まえに行ってた。

運動音痴だったのが、おかげで足が早くなったと周りに言っていた。(ただのバカなのかもしれない)

とはいえ、小学校に入ったのは90年代後半で、ミニ四駆や、ポケモンにスマブラに遊戯王とゲームやホビーが取っ替え引っ替え出てきてたので、学校が終わったらみんなでマリカー大会が定番だった。

大阪の住宅街で、外で遊べるところが少なかったが、野球(三角ベース)やドッジボールもよくやってた。

中学時代

中学に上がって、野球部に入る。中学に入る前の年に近鉄バファローズが奇跡の優勝を果たしたので、周りは近鉄ファンが多かった。もちろんいながきもその一人である。未だに、近鉄最後の年に、ファンクラブ会員に送られてきたポストカードを飾っている。

ただ部活の方は、小学校時代エラー王の称号は伊達ではなくレギュラーは3年間取れ無かったが、代打の1番手までは上り詰めた。

中3の時に転任してきた顧問の先生が、かなり理論的な野球観があって感銘を受ける。配球サイン読みまくりで口が開く。おかげで分析しながら野球を見る癖がついて、今でも試合にのめり込めなくなったw

勉強の方は、小さい頃からやってた公文式のおかげで成績は良かった。やってて良かった(言わせねーよ)。ただ、勉強することに楽しみを見出せなかったせいか、中1の担任の先生に欲がないと言われる。もっとできるはずなのにと言われても、学年で10番くらいには入ってるから別にええやんって思ってた。

学年が進んでもその思いは変わらず、レールの上を走ってるようで気味が悪くなった。思えばここから歯車が狂ってきたらしい(元々狂ってたのかもしれないが)。高校に入ったら勉強はしないと決めて受験勉強を迎える。

高校時代

成績が良かったおかげで、特に苦労も無く志望校に合格。志望したのは、自主自律という校風を掲げる、制服のない公立校。ここなら勉強しなくても怒られないだろうw

テスト勉強もしなければ、宿題もしない。もちろん部活も入らないつもりだった。しかし、同級生が野球部に少なかったらしく、熱烈な勧誘を断りきれず6月に中途半端に入部する。

どうせ勉強することもなく、暇やったしええか、って軽い気持ちだったが、弱小校のくせに思いの外上下関係が厳しい。何故か野球部だけは学ランなど色々なルールがめんどくさい。

さらに、顧問の先生の言ってることがよく分からず頭が痛くなる。変に野球観がついてしまって、采配に納得できなかった。(ベンチがアホやからなんちゃら)

結果、6月に入って9月に辞めるという、お前何しに来た状態を見事に作り上げる。

そんなこんなで、よく分からない高校生活のスタートを切ったが、ここはまだ序章である。ここからがいながきの人生本当のスタートである。

パニック障害との出会い

2年生になり、流石にテストで低い点数を取り続けるのもどうかと思いはじめ勉強に手をつける。結果的にそこそこの点数を取れたのだが、どうも勉強の仕方がよく分からなくなっている。1年のブランクはきつい。

それが妙に頭に引っかかったのか、ストレスになってしまったのか、ついに事件が起きる。いわゆる、地下鉄パニック事件である。そう、地下鉄で過呼吸を起こしてしまったのである。(みんな経験してるよね?って口調で話すな)

色々な医者に診てもらった結果、パニック障害と診断される。これが最初にかかった精神疾患である。

まあ正直、ショックかと言われるとそうでもなくて、むしろ勉強しない言い訳ができたと思っていた。これが最悪で、精神疾患が正当化されると治るものも治らない。(たぶん)

おかげで、テスト中に過呼吸が起きる。普段通り登校できることは少なかった。好きな時間に登校して、気分が悪くなったら早退する学校生活を送る。昼飯食べに行って、体育だけ出て帰る日もあったw

もちろん、高校時代の思い出はあまり無い。ネトゲと涼宮ハルヒの憂鬱にハマってしまい、ほぼ引きこもり状態。日にちだけが過ぎてく毎日。生きる希望はアニメとゲームだけ。将来の事など知ったこっちゃ無い、なら良かったが絶望しか見えて来ないので、余計にもがいて苦しい。

生きる意味とか何で生まれてきたのかとか、死んだらどうなるとか、生命はどっからきたのかとかずっと考えていた。今になって考えたら、宇宙と戦っていたんだなと思う。なるほど、勝てないw

絶望が絶望を産み、もうどうにもならないと思って、高校を辞めようと親に相談した。もちろん、即却下される。極力、人に分からないように死ぬつもりだったのに、計画が台無しだ。(マジでありがとう)

どこから聞いたかは知らないが、母親にいわゆる霊媒師の元へ連れて行かれた。怪しいとも思ったが、もう信じるしか無かった。あんたは病気じゃ無いと言われて、その日から断薬する。(絶対オススメしません)

一週間ほど全く動けない日が続き、胃に入れたのはちょっとのお粥くらい。そりゃどんどんキツい薬を処方されていたので、当然である。まさに、生き地獄。正直思い出したく無いから、書きたく無かった。

次第に回復してくると、何故か勉強せなあかん!と思い始めたのは高3の10月だった。今まで勉強して来なかった分、伸び代が半端なく(模試は毎回学年最下位)めちゃくちゃ勉強が楽しかった。マグロの有名な大学に合格した。

大学時代

大学合格が決まると、ちょうど同じタイミングでWiiのスマブラXが発売された。それにのめり込んだ勢い余って、夢のキャンパスライフがスタートする。(夢は夢である)

サークルは純粋に野球を楽しみたいと思って草野球サークルに入り、バイトを始めたり、これまでと比べると順風満帆で楽しかった。

1年は勉強せずに楽しんだが、高校の時と比べると学費も高いし、勉強しないと勿体ないと思って勉強に打ち込む。英語系の学科だったので、英語だけはできないと大学に入った意味がない。留学制度があり、留学するにはTOEIC700点が目安になっていた。留学する気はないけど、点数取ってないから行かないと思われるとカッコ悪いと思って、TOEIC700を目指す。

勢い余って800点超えるw勢い余って留学するw

留学と2回目の不調

人生万事塞翁が馬って言いますけど、本当その通りでw

20歳の時に留学。周りの仲間にも恵まれて、正直楽しい事しか思い出せないくらいに良かった記憶しかないw

アメリカは4学期制で、留学期間は3学期間だったが、その3学期目に高校と同じ症状が出た。

その時は、仲よかった友達に裏切られた気がして(ほぼ思い込みというか、今となったらそんな気にしなくて良かったのにって感じ)、それがトリガーになったのかなと

一応、コーディネーターみたいな人がいたので、医者に連れてってもらって、薬も貰ったけど、そんなに飲んだ記憶は無い。対処法は学習したので、死にたくなっても、オレは死なないを繰り返した。

当面の目標は生きて日本に帰る事w

ホームステイしてたので、学校に行かないと説明がめんどくさいと思い。スタバで午前中暇を潰して、ランチを友人と食べて家に帰るの繰り返し。これはこれでアメリカ(田舎)ライフを楽しめて良かったw

自衛官時代

留学から帰ると、周りは既に就活モード。病気を治してからでいいやとゆっくりしてたが、正直何すればいいか分からん状態だし、何をしたいかも分からんしで、別に就職しなくてもいいかなと思いながら過ごしてたら、サークルの同期が自衛隊受けないかとお誘いが

内定も無かったし、受けるだけと思って受けたら通って、さらに超大手からも内定をもらう。大手の営業は精神的にキツそうやし、鍛えるなら自衛隊の方が鍛えてくれそうという、よく分からない理由と、純粋に自衛隊にしかできない経験があると思って入隊を決意

ちなみに入隊したのは、航空自衛隊で、入る前は政府専用機のCA志望(入ってから適正が無い事を知り断念)

初期教育の学校を上位5%で卒業し、やる気満々で配属先へ(ちなみに学校から配属先まで1kmしか無い)先輩に後から、あの時のお前は目が怖かったと言われる

仕事は正直つまらなかった。基地は末端の末端で、実働とは程遠い。毎日が同じことの繰り返し。自衛隊と言えども公務員、お役所仕事とあんまり変わらない。辞めようかなと思いつつ、ズルズルと続けると、やっぱりヤツが来るw

双極性スペクトラムって何?

5年目くらいだったと思うが、急に食欲が無くなり、休みの日に1食も食べずに過ごしても次の日も腹が減らない事に違和感を覚える。幸か不幸か連休だったので、まあほっとけば治るっしょと思ってたが、どうにもおかしいので上司に報告したら、仕事を全て取り上げられる。

え?何で?って思っていたが、どうやらそっとしておけ、って指示が出たのだろう。おかげで、腫れ物に触るな状態である。職場に行ってもやることが無いという矛盾にどう対処していいか分からず過ごしていると、更に体が動かなくなった。ベットから出ることさえ難しい。

自衛隊の良いところは基地内でほとんど完結出来るところである。カウンセラーさんも身内(技官なので自衛官とはちょっと違う)なので、話はわかってもらいやすい。相談の結果、内科の診断して何も無かったので、精神科に通う事に。

初診で言われた謎の「双極性スペクトラムの疑い」という診断にはビックリした。双極性って躁鬱病でしょ?スペクトラムって何って思っていたが、上司同伴だったので、きちんと説明してくれた。

簡単に言うと、躁鬱病かもしれないし、ただのうつ病かもしれないけど、その広いスパンを視野に入れた方が状態らしい(あくまで疑いなので、詳しく知りたい人は調べてください)

と言う事で、3度目の精神疾患である。こっちは対処法は心得ているが、今度は学校では無いので、好き勝手出来ない。しかし、仕事は取り上げられたし、有給は使い切れないほどあるw

まあ、そんな好きには出来ないっすよねw部屋も一人部屋じゃ無いし、基地内だし、平日に休んでると、食事行くのも気を使うし

幸い、お世話になった精神科の先生は薬をあまり出さない先生だったし、カウンセラーさんとも相談しながらだったので、回復は早くて、半年もしない間にピンピンしてきました。

ただ、このまま自衛隊に残るのもちょっと違うと思っていたし、ある意味キリが良かったので、そのままの流れで辞めちゃいましたw

フリーター時代

自衛隊を辞めて、実家に帰ってフリーターを始める。なんか面白そうな所がいいと思って、たまたま割と立地のいいサバゲーフィールドが募集してたので、応募したらすぐに合格。

しかし、4ヶ月で閉店w

これは仕方ない、転職考えるかと思って筋トレにハマっていたので、ダイエットジムのインストラクターの面接に応募したら、2社アルバイトからの採用で合格を頂く。

周りからも似合うとか言ってもらったのに、働く予定の1週間前に内定を取り消されるw(内定取り消しは犯罪です、マジで)

職が無くなったと思いきや、掛け持ちで働いていたバイト先にその話をすると、来てよと言われ、無職は免れるw

とは言え、これもきっかけだしと思って、転職活動を再スタート。

深キョンがCMやってるサービスに登録して、片っ端から受けまくる。ある程度受かりまくって、比較的条件の良さそうな商社に入社を決意する。

サラリーマン時代

やっと定職に就けた!と思ってたんっすけど、ヤツが来るのが早かったっすw

適応障害やって

働き始めて3ヶ月で、適応障害の診断が出ました。正直理由はよく分からない。あれこれ考えても仕方ないし、職場に出る努力はしてたけど、ダメなものはダメで、有給もない。休職を申し出ても期間は1ヶ月、治るとは思えない。

止むを得ず、退職しました。

無職になって

仕事を辞める前に、父親に「病気と上手く付き合っていかなあかん」って言われたことが、どうも引っかかって頭から離れない。だって、付き合った結果生きてるやんって思ってた。

まあでも、よく考えたら病気でも続けられる仕事やったらとか、不労所得やったら病気してもなんとかなるなと

あれこれ考えた結果、たぶん自分は組織向きの性格では無い。組織にいると無意識にも気を使って、自由にできない自分がいたと思う。それなら一人で一回好きなように挑戦してみたらええかなと思ってブログを始めたわけでございます。

だからと言って、病気を武器にしてブログを書こうとは思ってないし、仲間を増やしたいとも思わない。むしろ、こんな病気無くなればいいのにと心から思う。

なので、このブログでは、ストレスに立ち向かう方法とかを自分の経験や、取り入れた知識を伝えられればと思ってるけど、詳しいことは別でコンセプトについてお話しするので、良かったら読んでね♡

約30年の長い長いストーリーでしたが、ここまで読んで頂いて感無量でございます。ありがとうございました。(スクロールしてくれただけでも嬉しいっすw)